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新・仏教情報センター

カテゴリ
住職日記
投稿日時
2014年02月13日 12:58
投稿者
井上実直
先日、久しぶりに仏教テレホン相談にいってきました。

事務所が白山から水道橋へ引っ越しになりました。

結構あたらしい建物なので、綺麗な感じですぴかぴか(新しい)

NEC_0163.JPG

まだブラインドがありませんでしたが、快適な空間で、電話相談にも気合が入ります。

NEC_0166.JPG

理事の平井上人と事務の柿澤さんです。

NEC_0164.JPG

テレホン相談員は各宗派にいて、曜日ごとに担当がきまっています。
日蓮宗は水曜日が当番です。

【相談時間】午前10時〜12時・午後1時〜4時
     ※土・日・祝祭日は休み

03−3811−7470

仏事・信仰・人生に関わる悩みなど、お気軽におかけ下さいexclamation×2

http://bukkyo-joho.com/


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投稿日時
2015年09月08日 13:57
投稿者
森山現次郎

日蓮大聖人は『治病大小権実違目』に 「本迹の相違は水火・天地の違 目なり」(御書1236頁) と仰せられ、更に『妙一女御返事』に 「迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏なり」(御書1499頁)と仰られてる。『立正観抄』には 「三諦と云ふも三観と云ふも三千と云ふも不思議法と云ふも天台の己証は天台の御思慮の及ぶ所の法門なり。此の妙法は諸仏の師なり。(乃至)本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず」(御書770頁)と仰せのように日蓮様の説かれた本門の法とは単なる理法ではない。久遠当初の仏により覚られたところの境智の当体であり仏身である。実相とは迹仏の理談に過ぎず迹仏の思慮 すら及ばない久遠の本法につい て本迹未分とか実相の理は同じとか末弟が論断すること自体が浅識な謗法である。 また『開目抄』に「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(御書526頁) と「一念三千の法門」の有り場所が文底と示されるがこれにつき一致派では文上本果の釈迦を迹としこの釈迦により覚られた文底の実相本覚の理を本として始覚即本覚であり本迹は一致であるとする。 かかる一致派の本迹論は色相本果の釈迦に執着し体外の浅見をもって文底体内の無作三身義に踏み込んだ妄言である。文 上・文底の仏の身と位に迷い 本因妙の凡夫即極の本仏本法が寿量文底に在すところに本勝迹劣の真義がある事に惑う虚妄の論なのである。また絵像木像の釈迦の仏像を本尊として重視し大曼荼羅を軽視する。これは日蓮宗が仏像の小乗・大乗、権教・実教等の 意味に暗い事を示している。その好例が日朗が身延から立像の一体仏を持ち去った事である。西山本門寺に蔵される日興上人の『御遷化記録』(重要文化財)には 「御遺言に云はく仏は(釈迦立像)墓所の傍らに立て置くべし 云々」と記録されている。これは日蓮様が釈迦立像仏を帰依礼拝の対象たる本尊としてはならない事を明言された証拠である。脇士の無い一体仏は小乗の本尊にも及ばずまして末法の本尊で無い事は当然である。しかるに一致派においてはこの釈迦立像について「日朗に与えられた仏像」などと言い本尊として正当化としているのである。今日、一致派においては次の五種の本尊を立てる。(日蓮宗読本) 一、首題 本尊 二、釈迦 一 尊 三、大漫荼羅 四 、一 尊四士 五、二尊四士このうち一と三を法本尊、 二、 四、五を仏本尊としその中心は三の大漫荼羅と四の一尊四士であるが祖書の教示等に照らし一尊四士を日蓮宗の本尊と奠定するのが至当とする。そしてその根拠は『観心本尊抄』の次の文にあたるというのである。 「此等の仏をば正像に造り画がけども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(御書654頁) 「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(御書661頁) 前の文においては「仏像出現」の語句がある事。次の文では「本門の釈尊の脇士と為り」と読ませる事により一尊四士本尊の依文とするものである。一尊四士とは中央に久遠実成の釈尊像、左右に上行、無辺行、浄行、安立行の本化の四菩薩像を脇士として置く、仏像安置の形式の事である。この『観心本尊抄』の両文のうちまず初めの文は末法万年弘通の下種の大曼荼羅本尊を示された直後の文であり当然この大曼荼羅本尊を末法に出現される能弘の仏を示された文と拝すべきである。また「出現」の語句を使用されるのである。その理由は『観心本尊抄』 に「出現」の語句が 九箇所に用いられているがその全てが南岳・天台や四依の大士など現実の正像末の歴史的段階に表われる人格を指されているからである。また次の文についての解釈もまったくの誤読である。それは『日蓮宗』 では地涌千界が出現して「本門の釈尊の脇士となり」と読ませ中央の釈尊像に四菩薩が脇士となる所謂一尊四士本尊の依文とするが現実に末法の世に出現する四依たる生身の地涌がどうして仏像の釈尊の脇士になれるというのか?この「本門の釈尊」は下の句の「一閻浮提第一の本尊」にかかる語であり地涌千界が出現して「本門の釈尊」を脇士と為す本尊、即ち大漫荼羅を建立するとの御指南と拝さなければならない。その証拠は日蓮様は御一期においてまったく木像画像の本尊を建立されていない事である。もし日蓮様の正意が木画の仏像造立にあるのであれば地涌千界が末法に出現して建立すべき本尊を日蓮様は建立されていない事になる。それでは『聖人御難事』の「余は二十七年なり」の本懐成就の御文の意義が成り立たず日蓮様が本化地涌の上首では無い事になる。また「一閻浮提第一の本尊」とはまさしく事の一念三千の大漫荼羅である事が明らかなのである。次に『日蓮宗』において一往大漫荼羅を本尊とする義もある。だがその大漫荼羅本尊に対する信解に大きな誤りがある。それは五老門流の直弟は大漫荼羅から日蓮の御名を除き自己の名を大書しており首題の直下に日蓮在判と書かれたのは日興上人御一人である。(日興上人の義を身延において知り得た日向には僅かにある)これこそ不相伝であり五老僧が大漫荼羅の当体を日蓮様と拝する事が出来ず別個のものと考えた証左である。日興上人以来、本因下種仏法が正しく相伝された日蓮正宗において大漫荼羅を日蓮大聖人の一身の御当体とする。末法の一切衆生の即身成仏の直道が存するのである。
また日蓮宗では四箇の格言や邪宗破折や折伏をしていない!それで日蓮様の直弟子と言えるのか!今すぐ邪宗 日蓮宗を棄て日蓮正宗 法華講へ改宗される事を進める。これは勧誘では無い。
『日蓮宗』は日蓮様を「大菩薩」と呼び「僧宝」としてるが『開目抄』には 「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(御書577頁) と日蓮様こそ末法の一切衆生にとって主師親の三徳を具えた仏である事を明かされている。末法真実の仏を「菩薩」と下すのは日蓮様に対してお心に背く誹謗である。また『日蓮宗』では鬼子母神、稲荷、七面大明神、摩利支天、帝釈天などを祀って拝ませているがこのような信仰が日蓮様の厳しく禁じられた謗法になるのだ!波木井実長や、これらの 謗法も根本の原因は日蓮様を末法の仏と仰ぐ事が出来ず、正法正義と謗法厳誡の御化導に背いてる!貴方様が単なる金銭目的ではなく本当にこの世を救って行きたいと願うならば早く日蓮正宗へ帰依されよ!
南無妙法蓮華経

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